福知山線で停車位置オーバー
あの事故から二年経った今日、朝から何度も何度も、文字通り反吐が出るほど、このニュースを流しているのを見た。(たまたま午前中大阪にいたからかも知れんが)
(引用)
福知山線で停車位置オーバー=50メートル、けが人なし-JR西
(時事通信社 - 04月25日 06:12)
24日午後11時半ごろ、兵庫県尼崎市のJR福知山線塚口駅で、新三田発四条畷行き上り普通電車(7両編成)が、停車位置を約50メートル過ぎて止まった。乗客約50人にけがはなかった。
JR西日本によると、雨でレールがぬれていたのに、運転士が早めにブレーキをかけなかったのが原因とみられる。電車は約5分遅れで運転を再開した。
[時事通信社]
(引用終)
あのとき、JR西日本が列車の遅延に対して社内で行っていた(ひょっとして今も行っているのか)日勤教育に対して、あれほど叩きまくっていたマスコミは一体ナニサマなのだ。
列車の定時運行に関して致命的な影響を及ぼすオーバーラン、そして結果的に列車は遅延。
これをこれほどまで何回も報道する意味があるか?
マスコミでこれだけ報道するということは、このオーバーランも遅延も社会的に大きな問題があるからなのか? 深夜の都心方面行きの列車の遅延報道に、社会的な意義があるとは到底思えない。そして、そんなことは、毎日のように全国の大都市で起こっている。
3月のとある深夜、三宮から北新地方面に向かっていたのだが、東海道線が若干遅れていたために、尼崎で乗り換えるときに東西線に乗り継げなかった。
当然ながら、「なぜ乗り継がせないのだ」と心の中では怒りを覚えたのだが、この怒りが事故を呼んだ一つの遠因でもあったはずである。
今日は大阪駅から三宮に向かっていたのだが、大阪駅の電光掲示板には、「何時何分発」と「行き先」に加えて「遅延情報」を表示する欄が予め用意されているのに気付いた。(前からあったのかも知れんが)
もちろん定時運行を心掛けてほしいのは当然だが、「安全」を後回しにした「定時運行」にどれほど意味があるというのだ?
今マスコミは、再び「遅延」を繰り返し報道している。
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